競歩の話題・歴史など書きました
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1ヶ月ほど前の記事となるが、久々に彼の姿を見た。
http://www.iaaf.org/news/Kind=2/newsId=34278.html
WFP(世界食料計画)の活動でアフリカを訪問していたようだ。
現役を引退してまもなく2年となるが、体つきはさほど変わっていないように思える。
取り囲んでいる子供たちから見たら、支援者の誰かというイメージしかないだろう。
我々競歩に携わる人間にとってはオリンピック3連覇を成し遂げた英雄だが、
カールルイス(短距離)は知っていても彼がわかる人は少ないかもしれない。
しかしコジェニョフスキーも第2の人生をスタートさせている。
そんな彼の戦績を振り返ってみる。
http://www.iaaf.org/news/Kind=2/newsId=34278.html
WFP(世界食料計画)の活動でアフリカを訪問していたようだ。
現役を引退してまもなく2年となるが、体つきはさほど変わっていないように思える。
取り囲んでいる子供たちから見たら、支援者の誰かというイメージしかないだろう。
我々競歩に携わる人間にとってはオリンピック3連覇を成し遂げた英雄だが、
カールルイス(短距離)は知っていても彼がわかる人は少ないかもしれない。
しかしコジェニョフスキーも第2の人生をスタートさせている。
そんな彼の戦績を振り返ってみる。
50kmオリンピック3連覇の印象が強いが、世界大会デビューは91年東京世界陸上である。
このとき20km10位、50km途中棄権の成績となっている。
当時23歳、本人に失礼だがビデオ見る限り、ヒゲ面で今よりも老けて見える。
おそらく誰しもが後年の方が若々しく思えるはず・・・・。
そして当時のフォームも後年に比べて軽い。その軽さが仇となり、
翌92年バルセロナオリンピック50kmでは優勝のペルロフ(EUN)についで
2位で来ながらスタジアム入り口で失格。その翌年の93年世界陸上(ドイツ)でも
40km過ぎで失格となっている。
最初で苦労を味わったせいか、フォーム矯正が図られた90年代後半から
世界のトップとして君臨する。まず95年世界陸上(スウェーデン)で50km3位。
そして翌96年アトランタオリンピックで20km8位、50kmではアトランタ特有の湿度をもろともせず、第2集団から追撃してきた2位シチェンニコフ(ロシア)を振り切り、初の金メダルを獲得する。
翌97年世界陸上(ギリシャ)、翌98年ヨーロッパ選手権(ハンガリー)優勝。
99年世界陸上(スペイン)は途中失格(これが近年唯一の敗戦)となったが
2000年シドニーオリンピックで快挙が成し遂げられる。
まずは20km、持ちタイムではトップではなかったが
スタートから果敢にトップを引っ張りレースをリードしていく。
このとき日本の柳沢選手もトップ集団にいたが、10km過ぎから引き離された。
残り2kmからコジェニョフスキーとエルナンデス(メキシコ)の争いとなった。
後ろからセグラ(メキシコ)が猛追し、残り800mで2人に追いついた。
このとき、私が持っているレースのVTRを見るとメキシコ2人が軽い動きに対し
コジェニョフスキーは腕の触れた地を這うような歩き印象的。
まさに”歩いて”いた。
そしてその差がこのあと結果として現れる。
3人の争いはスタジアム入り口でエルナンデスが遅れ、
スタジアム内直線100mでセグラ、コジェニョフスキーの争い。
ラスト強いセグラが振り切りトップでゴールするが失格。
コジェニョフスキーの繰り上げ金メダルとなった。
セグラの3枚目のカードは3人の争い時に切られたもの。
コジェニョフスキーのフォームが周り選手に目を向けさせたのだ。
このときの優勝タイム1時間18分59秒はオリンピック記録となった。
その6日後の50kmではずっと先頭を引っ張り、残り7kmで
サンチェス(メキシコ)を引き離した。
レース内容を書くまでもないほど彼の圧勝だった。
競歩種目での連覇は史上初(2回優勝した人はいる)。
もちろん20km50km2冠も史上初であった。
実は現地で放送された50kmのVTRを持っているのだが、
彼の動きはスゴイの一言。
非常にパワフルでとにかく後ろを腕が振り切れている。
日本でこの動きをしていたのは柳沢選手くらいだろうか。
シドニー以後、彼は年1回の50km出場としていた。
そしてその全てで優勝した。
01年世界陸上(カナダ)では危なげなく優勝。
そして02年ヨーロッパ選手権(ドイツ)では3時間36分29秒の世界記録を樹立し
名実ともに世界一となった。
その翌03年世界陸上(フランス)でもさらに23秒更新、もちろん金メダル。
そして04年アテネオリンピック、彼も36歳。20kmは出場せず50kmのみ。
猛暑の中のレースとなったが、準備万端の彼にとっては敵ではなかった。
この2ヶ月前、ロシアの24歳ニジェゴロドフが3時間35分29秒の世界記録をマーク(この記録は審判の不備で後に抹消)し対抗馬と目された。
序盤は6人の先頭集団で進む、そのほとんどをコジェニョフスキーが引っ張り
25kmから徐々に落ちていくサバイバルレース。
30km過ぎでニジェゴロドフが遅れ、ディークス(オーストラリア)との
争いとなったが32kmでディークスが失格、あとは完全な独歩となった。
残念ながらオリンピック記録に17秒及ばなかったが
結局2位ニジェゴロドフに4分4秒の大差をつけ金メダル。
余裕でウィンニングランを行なうコジェニョフスキーの横で、
ニジェゴロドフはゴール後、地面に倒れこんでしまった。
力の差を見せ付けられた感があった。
ここで忘れてならないのが、6位・7位にもポーランドの若手選手が入り
ポーランドは全員入賞。コジェニョフスキーのあとの世代も育っていた。
以前からアテネを最後に引退を表明していた。
実際このレースが最後となった。
36歳といえども力的にはまだまだやれる。
しかし、潔く彼は引退した。
日本で彼のフォームを皆様に見てもらえないのが非常に残念。
基本に忠実でパワフルな彼の動きは、選手・審判にかなりの影響を与えるだろう。
戦績のみならず、フォーム作りでも彼は90年代後半~21世紀初頭の
競歩界の英雄なのである。
ベスト記録
20km 1時間18分22秒(2000)
50km 3時間36分03秒(2003 世界記録)
このとき20km10位、50km途中棄権の成績となっている。
当時23歳、本人に失礼だがビデオ見る限り、ヒゲ面で今よりも老けて見える。
おそらく誰しもが後年の方が若々しく思えるはず・・・・。
そして当時のフォームも後年に比べて軽い。その軽さが仇となり、
翌92年バルセロナオリンピック50kmでは優勝のペルロフ(EUN)についで
2位で来ながらスタジアム入り口で失格。その翌年の93年世界陸上(ドイツ)でも
40km過ぎで失格となっている。
最初で苦労を味わったせいか、フォーム矯正が図られた90年代後半から
世界のトップとして君臨する。まず95年世界陸上(スウェーデン)で50km3位。
そして翌96年アトランタオリンピックで20km8位、50kmではアトランタ特有の湿度をもろともせず、第2集団から追撃してきた2位シチェンニコフ(ロシア)を振り切り、初の金メダルを獲得する。
翌97年世界陸上(ギリシャ)、翌98年ヨーロッパ選手権(ハンガリー)優勝。
99年世界陸上(スペイン)は途中失格(これが近年唯一の敗戦)となったが
2000年シドニーオリンピックで快挙が成し遂げられる。
まずは20km、持ちタイムではトップではなかったが
スタートから果敢にトップを引っ張りレースをリードしていく。
このとき日本の柳沢選手もトップ集団にいたが、10km過ぎから引き離された。
残り2kmからコジェニョフスキーとエルナンデス(メキシコ)の争いとなった。
後ろからセグラ(メキシコ)が猛追し、残り800mで2人に追いついた。
このとき、私が持っているレースのVTRを見るとメキシコ2人が軽い動きに対し
コジェニョフスキーは腕の触れた地を這うような歩き印象的。
まさに”歩いて”いた。
そしてその差がこのあと結果として現れる。
3人の争いはスタジアム入り口でエルナンデスが遅れ、
スタジアム内直線100mでセグラ、コジェニョフスキーの争い。
ラスト強いセグラが振り切りトップでゴールするが失格。
コジェニョフスキーの繰り上げ金メダルとなった。
セグラの3枚目のカードは3人の争い時に切られたもの。
コジェニョフスキーのフォームが周り選手に目を向けさせたのだ。
このときの優勝タイム1時間18分59秒はオリンピック記録となった。
その6日後の50kmではずっと先頭を引っ張り、残り7kmで
サンチェス(メキシコ)を引き離した。
レース内容を書くまでもないほど彼の圧勝だった。
競歩種目での連覇は史上初(2回優勝した人はいる)。
もちろん20km50km2冠も史上初であった。
実は現地で放送された50kmのVTRを持っているのだが、
彼の動きはスゴイの一言。
非常にパワフルでとにかく後ろを腕が振り切れている。
日本でこの動きをしていたのは柳沢選手くらいだろうか。
シドニー以後、彼は年1回の50km出場としていた。
そしてその全てで優勝した。
01年世界陸上(カナダ)では危なげなく優勝。
そして02年ヨーロッパ選手権(ドイツ)では3時間36分29秒の世界記録を樹立し
名実ともに世界一となった。
その翌03年世界陸上(フランス)でもさらに23秒更新、もちろん金メダル。
そして04年アテネオリンピック、彼も36歳。20kmは出場せず50kmのみ。
猛暑の中のレースとなったが、準備万端の彼にとっては敵ではなかった。
この2ヶ月前、ロシアの24歳ニジェゴロドフが3時間35分29秒の世界記録をマーク(この記録は審判の不備で後に抹消)し対抗馬と目された。
序盤は6人の先頭集団で進む、そのほとんどをコジェニョフスキーが引っ張り
25kmから徐々に落ちていくサバイバルレース。
30km過ぎでニジェゴロドフが遅れ、ディークス(オーストラリア)との
争いとなったが32kmでディークスが失格、あとは完全な独歩となった。
残念ながらオリンピック記録に17秒及ばなかったが
結局2位ニジェゴロドフに4分4秒の大差をつけ金メダル。
余裕でウィンニングランを行なうコジェニョフスキーの横で、
ニジェゴロドフはゴール後、地面に倒れこんでしまった。
力の差を見せ付けられた感があった。
ここで忘れてならないのが、6位・7位にもポーランドの若手選手が入り
ポーランドは全員入賞。コジェニョフスキーのあとの世代も育っていた。
以前からアテネを最後に引退を表明していた。
実際このレースが最後となった。
36歳といえども力的にはまだまだやれる。
しかし、潔く彼は引退した。
日本で彼のフォームを皆様に見てもらえないのが非常に残念。
基本に忠実でパワフルな彼の動きは、選手・審判にかなりの影響を与えるだろう。
戦績のみならず、フォーム作りでも彼は90年代後半~21世紀初頭の
競歩界の英雄なのである。
ベスト記録
20km 1時間18分22秒(2000)
50km 3時間36分03秒(2003 世界記録)
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rawk
性別:
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職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年
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内容は私個人の見解を書いています。
日本競歩界の見解ではありません。
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