競歩の話題・歴史など書きました
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世界陸上前最終回は現役選手でもある、
ヘスス・アンゲル・ガルシア(スペイン)にスポットを当てる。
92年に世界大会デビューし、15年経過した現在も健在である。
我々の常識を超えた歩きを見せ、少なからず技術に影響を与えた。
また、今村文男選手がスペイン合宿で共にトレーニングを行ない
世界陸上6位入賞を果たすなど日本との関わりも大きい。
ヘスス・アンゲル・ガルシア(スペイン)にスポットを当てる。
92年に世界大会デビューし、15年経過した現在も健在である。
我々の常識を超えた歩きを見せ、少なからず技術に影響を与えた。
また、今村文男選手がスペイン合宿で共にトレーニングを行ない
世界陸上6位入賞を果たすなど日本との関わりも大きい。
スペインは92年地元バルセロナ五輪まで
さほどメダルの数は他のヨーロッパ諸国と比べると少なかった。
その中に1980年モスクワ五輪の男子50km競歩で
ジョルジ・ロパルトが銀メダルを獲得した。
ここからスペインの競歩に対する可能性が高まった。
83年第1回世界陸上男子50kmでもホセ・マリンが2位となった。
現在ロパルトとマリンがスペインの2大コーチとして
多くの選手を育てている。
ロパルトが育てた選手の一人がダニエル・プラッサ。
91年東京世界陸上男子20kmでは3位に入りながらゴール後失格。
92年バルセロナ五輪男子では念願の金メダルを獲得。
バルセロナは地元のプラッサにとってスペイン初の競歩金メダルだった。
そのバルセロナで50kmで10位に入ったのがガルシアだった。
当時23歳。9位に42歳のマリン、2秒遅れてゴールている。
翌93年ドイツ世界陸上で彼は一気に輝きを掴む。
バルセロナ優勝のペルロフが引退し、
ソ連一色から新しい選手の登場を望んでいた。
優勝候補は、バルセロナ2位のメルセナリオ、
同大会で失格していた、コジェニョフスキー(ポーランド)、
91年5位のコノネン(フィンランド)だ。
メルセナリオが後半失速、コジェニョフスキーが失格する中、
2位と20秒差で初の金メダルを獲得した。
ガルシアはオリンピックではあまり縁のない選手だった。
優勝候補として出場した96年アトランタ五輪では
先頭を引っ張りながらバテてしまい、途中棄権に終わった。
それを活かしたのか、97年のワールドカップ競歩(チェコ)では
序盤は第2集団からスタートした。
ダイナミックな歩きが印象的で、
おそらく多くの選手は競歩を始めるとき、1直線歩行というのを
教わることが多いが、この選手は両足2直線歩行で歩く。
また豪快な腕振りは我々の競歩の見方を変えた。
残り500mで先行していたイシューキン(ロシア)を抜いて
3時間39分54秒の自己ベストで優勝した。
96年ごろから、日本の競歩陣がスペインチームとともに合宿していた。
今村選手、原選手、柳沢選手らが派遣された。
そのときロパルトコーチのもとプラッサ、ガルシアらとトレーニング。
97年アテネ世界陸上で今村文男選手が6位入賞を果たしたことは大きい。
2000年シドニー五輪では先頭集団をコントロールしていたが
やはりバテてしまい12位に終わる。
90年代前半に活躍した選手がだいたいこの大会を最後に
引退して行く選手が多かったがガルシアは現役を続け、
2001年世界陸上で2位、それからは入賞の常連となった。
近年は先頭集団には入らず、後半追い上げで順位を獲得する。
2004年のアテネ五輪ではスタートは、第2集団のさらに後ろからスタートして
5位入賞を果たした。
2005年のヘルシンキ世界陸上では、40kmまで5位で歩いていたが失格。
9位を歩いていた山崎勇喜選手が繰り上がり
8位入賞するということもあった。
昨年も37歳でヨーロッパ選手権2位に入り、我々を驚かせた。
今年も春先の中国の国際大会で3位に入っている。
コジェニョフスキーとともに世界の競歩界を引っ張り15年以上経った今でも
世界の超一流として活躍している彼が
初めて日本へやってくる。
彼の動きはちょっと常識を変えるかもしれない。
世界陸上まで1ヶ月を切った。
さほどメダルの数は他のヨーロッパ諸国と比べると少なかった。
その中に1980年モスクワ五輪の男子50km競歩で
ジョルジ・ロパルトが銀メダルを獲得した。
ここからスペインの競歩に対する可能性が高まった。
83年第1回世界陸上男子50kmでもホセ・マリンが2位となった。
現在ロパルトとマリンがスペインの2大コーチとして
多くの選手を育てている。
ロパルトが育てた選手の一人がダニエル・プラッサ。
91年東京世界陸上男子20kmでは3位に入りながらゴール後失格。
92年バルセロナ五輪男子では念願の金メダルを獲得。
バルセロナは地元のプラッサにとってスペイン初の競歩金メダルだった。
そのバルセロナで50kmで10位に入ったのがガルシアだった。
当時23歳。9位に42歳のマリン、2秒遅れてゴールている。
翌93年ドイツ世界陸上で彼は一気に輝きを掴む。
バルセロナ優勝のペルロフが引退し、
ソ連一色から新しい選手の登場を望んでいた。
優勝候補は、バルセロナ2位のメルセナリオ、
同大会で失格していた、コジェニョフスキー(ポーランド)、
91年5位のコノネン(フィンランド)だ。
メルセナリオが後半失速、コジェニョフスキーが失格する中、
2位と20秒差で初の金メダルを獲得した。
ガルシアはオリンピックではあまり縁のない選手だった。
優勝候補として出場した96年アトランタ五輪では
先頭を引っ張りながらバテてしまい、途中棄権に終わった。
それを活かしたのか、97年のワールドカップ競歩(チェコ)では
序盤は第2集団からスタートした。
ダイナミックな歩きが印象的で、
おそらく多くの選手は競歩を始めるとき、1直線歩行というのを
教わることが多いが、この選手は両足2直線歩行で歩く。
また豪快な腕振りは我々の競歩の見方を変えた。
残り500mで先行していたイシューキン(ロシア)を抜いて
3時間39分54秒の自己ベストで優勝した。
96年ごろから、日本の競歩陣がスペインチームとともに合宿していた。
今村選手、原選手、柳沢選手らが派遣された。
そのときロパルトコーチのもとプラッサ、ガルシアらとトレーニング。
97年アテネ世界陸上で今村文男選手が6位入賞を果たしたことは大きい。
2000年シドニー五輪では先頭集団をコントロールしていたが
やはりバテてしまい12位に終わる。
90年代前半に活躍した選手がだいたいこの大会を最後に
引退して行く選手が多かったがガルシアは現役を続け、
2001年世界陸上で2位、それからは入賞の常連となった。
近年は先頭集団には入らず、後半追い上げで順位を獲得する。
2004年のアテネ五輪ではスタートは、第2集団のさらに後ろからスタートして
5位入賞を果たした。
2005年のヘルシンキ世界陸上では、40kmまで5位で歩いていたが失格。
9位を歩いていた山崎勇喜選手が繰り上がり
8位入賞するということもあった。
昨年も37歳でヨーロッパ選手権2位に入り、我々を驚かせた。
今年も春先の中国の国際大会で3位に入っている。
コジェニョフスキーとともに世界の競歩界を引っ張り15年以上経った今でも
世界の超一流として活躍している彼が
初めて日本へやってくる。
彼の動きはちょっと常識を変えるかもしれない。
世界陸上まで1ヶ月を切った。
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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年
国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。
内容は私個人の見解を書いています。
日本競歩界の見解ではありません。
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