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競歩の話題・歴史など書きました
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 女子の競歩は70年代後半からヨーロッパで本格的に競技会が始まった。
1976年モントリオールオリンピックで50kmが削除されたことを受けて
世界の競歩界は改革を積極的に行なった。
世界的な普及を目指してワールドカップ競歩第1回大会の開催、
そして女子の競技会の普及であった。
これを受けて日本でも1980年11月に日本記録を公認。
翌1981年から本格的スタートし新聞紙上でも取り上げられた。

 80年代に入ると中国が強化に乗り出した。
新種目に非常に力を入れる中国であるが
その中でも競歩は現在もトップクラスの地位を保っている。

 その中から、女子競歩が初めて採用された
1992年バルセロナオリンピック10km競歩
女子競歩初代チャンピオンに輝いた陳躍玲を取り上げる。
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東京世界陸上ボード20km 50km優勝者女子10km優勝者
 
 第3回世界陸上東京大会は1991年8月23日~9月1日まで行われた。
その舞台となった東京・国立競技場には各種目の優勝者を刻んだ
モニュメントプレートが飾られている(100mゴールの外)。

 カール・ルイス(アメリカ 男子100m)、セルゲイ・ブブカ(旧ソ連 男子棒高跳び)、
マリーン・オッティ(ジャマイカ 女子4X100mR)、ジャッキー・ジョイナー・カーシー(アメリカ 女子走り幅跳び)、
そして日本の谷口浩美選手(男子マラソン)。当時一時代を築いた英雄たちの名が刻まれている。

 その中に男子20km競歩マウリッソ・ダミラノ(イタリア)、女子10km競歩アリナ・イワノワ(旧ソ連)、
そして男子50km競歩アレクサンドル・ポタショフ(旧ソ連)とある。
しかし、50kmにはもう一人ゴールドメダリストが存在した。

 これは競歩史上もっとも過酷なレースの中で産まれた友情物語である。

 2004年の神戸後、日本の競歩界は一つの講習会によって変化が生じた。
ジャッジの仕方にこれまでの違いが出てきたのである。
前年の世界選手権(パリ)にて日本選手5人中3選手が失格するという事態。
日本の競歩のレベル、ジャッジのレベルを改善すべく、
一人の男に白羽の矢が立った。

 それが国際陸連競歩委員長マウリリオ・ダミラノ(イタリア)だった。
彼は現役時代は輝かしい実績を残した選手だった。

 旧ソビエト連邦。世界一の領土面積を誇り、共産圏諸国の主軸として
冷戦時代、絶大な権力を維持した。そして、国家を挙げた支援体制による
スポーツ大国としてのイメージが強い国である。

 1992年の崩壊まで、オリンピックでは対アメリカとのメダル数争い、
また、バレーボールや体操など日本との関わりも大きい。
これは私の考えであるが、同じ共産圏だった東ドイツがドーピング問題で
批判がある一方、旧ソ連ではあまり聞かない。
むしろ、数多くの選手を産み出した強化体制への評価が高く
「伝統」となって各独立したソ連諸国に引き継がれているように思える。

 その旧ソ連黎明期に男子20km競歩で2度金メダルに輝いた
ウラジミール・ゴルブニッツを取り上げる。

 1ヶ月ほど前の記事となるが、久々に彼の姿を見た。
http://www.iaaf.org/news/Kind=2/newsId=34278.html

 WFP(世界食料計画)の活動でアフリカを訪問していたようだ。
現役を引退してまもなく2年となるが、体つきはさほど変わっていないように思える。

 取り囲んでいる子供たちから見たら、支援者の誰かというイメージしかないだろう。
我々競歩に携わる人間にとってはオリンピック3連覇を成し遂げた英雄だが、
カールルイス(短距離)は知っていても彼がわかる人は少ないかもしれない。

 しかしコジェニョフスキーも第2の人生をスタートさせている。

 そんな彼の戦績を振り返ってみる。

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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年

国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。

内容は私個人の見解を書いています。

日本競歩界の見解ではありません。
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