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競歩の話題・歴史など書きました
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 2004年の神戸後、日本の競歩界は一つの講習会によって変化が生じた。
ジャッジの仕方にこれまでの違いが出てきたのである。
前年の世界選手権(パリ)にて日本選手5人中3選手が失格するという事態。
日本の競歩のレベル、ジャッジのレベルを改善すべく、
一人の男に白羽の矢が立った。

 それが国際陸連競歩委員長マウリリオ・ダミラノ(イタリア)だった。
彼は現役時代は輝かしい実績を残した選手だった。

彼は双子の兄弟としても知られており、その兄弟ともどもオリンピックに出場した。
また兄である長男サンドロ現役当時のコーチで、有名な3兄弟だった。

 1980年モスクワオリンピックは初めて社会主義国で行なわれたオリンピックだった。
ところが、前年暮れに起きたソ連軍アフガン侵攻に抗議する動きが
西側諸国のボイコットという事態を引き起こした。
主にボイコットしたのはアメリカ、西ドイツ、そして日本などである。
もちろん参加した国もあるが、開会式に出なかったり国旗を掲げなかったりと
混乱した中、競技が行なわれた。

 そんな中、競歩種目はアメリカ、西ドイツに主要選手が少なかったため
ボイコットの影響をほとんど受けずレベルの高いレースとなった。

 男子20kmの優勝候補は前回モントリオール大会の覇者で
前年世界記録をマークしていたバウチスタ(メキシコ)。
スタートからハイペースで進んだレースは最後に波乱が待っていた。
15kmまでのラップを全て奪ったバウチスタとソロミン(ソ連)が
残り2kmで失格となってしまった。10秒差で3位につけていたダミラノが
自己記録を更新して金メダルを獲得した。
ダミラノは五輪前2年間着実にタイムを伸ばしており、その実力が発揮された。

 ちなみにこのレースで双子の弟ジョルジョも11位に入った。


 それから4年後のロサンゼルス大会、モスクワ大会の報復とばかり
今度はソ連、東ドイツなど共産圏諸国がボイコットした。
男子20kMに出場したダミラノはメキシコ勢と再び一窮地となった。
レースを引っ張るメキシコ勢。後半はモスクワ大会と同じく
混戦となった。カント、ゴンザレスのメキシコ勢が隣国の応援の中
ダミラノ、ルブラン(カナダ)を揺さぶる。
結局遅れたダミラノはカント、ゴンザレスにワンツーを許し3位におわった。


 そして3年後の第2回世界陸上は地元イタリア・ローマで開催された。
そして男子20kmでスタジアム中を熱狂させた。
最初に戻ってきたのはダミラノだった。
大声援の中、自己記録を更新して金メダル。
この大会、3000mSCのパネッタとともにイタリアは2つの金メダルを獲得した。


 翌年のソウルオリンピックは、西側・共産圏ともに顔合わせとなり
競歩でも男子20km、50kmはともに好記録が続いた。

 男子20kmはダミラノやメキシコ勢を中心に展開された。
ハイペースで進んだレースの中に日本の酒井選手も含まれていた。
このハイペースは前回の覇者カントが失格、されにペースが上がった後半は
またしてもダミラノは遅れてしまい、プリビリネツ(チェコスロバキア)と
バイゲル(東ドイツ)が抜け出す。
そして3秒差でプリビリネツがオリンピック記録で優勝した。
バイゲルは3秒差、ダミラノは14秒差で銅メダルを獲得する。
この時点で、3大会連続でメダル獲得を果たした。

 それから3年後の、1991年世界陸上東京大会。
ソ連のシチェンニコフ、チェコのブラゼク(当時の世界記録保持者)、プラサ(スペイン)など
若手が徐々に力をつけ、34歳のダミラノは優勝候補には上がっていなかった。
実際、直前に行なわれたワールドカップ競歩でも8位に終わっていた。

 そしてレースは序盤からイタリア勢3人とミシューリア(ソ連)が引っ張る。
後半は1kmのスピードが3分45秒前後にペースアップするとサバイバル展開。

 ラスト3kmからダミラノ・シチェンニコフが抜け出す。
そして残り2kmの青山通りでシチェンニコフがスパート。
ダミラノも一時は50mほど引き離されたが徐々に詰めて
競技場手前で追いついた。

 しかし競技場に入ってハプニングが起きた。
男子100mの予選組の進行が遅れていたため
スタートを急遽ストップさせたところ選手が戻ってきてしまった。
本来なら4レーンあたりに花壇を置いて残り1週をあらわさなければならないのに
設置が間に合わず、そのままゴールと思ったシチェンニコフが猛然とスパート、
しかしまだ1周あったことに気づいたシチェンニコフは集中力を失い
その隙をついたダミラノがスパートして連覇。自身初の1時間20分切りであった。


 翌1992年バルセロナオリンピック。
競歩はラスト2kmをモンジュイックの丘を登ってくるという
非常にタフなコースで行なわれた。
スタート直後は丘を降りるということで下り。
最初の5kmを19分50秒と速いペース。

 10km手前でダミラノ、シチェンニコフらが遅れ
コジョニョフスキー(ポーランド)は途中棄権の中、
プラッサ、マッサナら地元スペイン勢が先頭でレースを刻む。
ダミラノも粘りを見せ15kmはプラッサ、マッサナ、ルブラン(カナダ)の
先頭3人とは10秒差で通過した。しかし最後の坂で遅れてしまい
金メダルが遠のいた。そしてルブランが遅れてスペインのワンツーと思われたが
スタジアム入り口手前でマッサナが失格。それでもトップで戻ってきた
プラッサに対する地元の応援でスタジアムは大熱狂。

 ダミラノは3位に付けていながら、坂を快調に上ってきたイタリアの後輩
デベネディクティスに逆転されてしまい4大会連続のメダルは逃した。
しかし、その表情は安堵感に包まれ現役最後の五輪はこうして終わった。
4回のオリンピックで金1、銅2は堂々たる成績である。

 五輪から3ヵ月後の10月3日、彼の引退試合がイタリア・クネオで行なわれた。
当時35歳の彼が最後に見せたのが、トラック30000mW2時間01分44秒1、
2時間W29572mの堂々たる世界新記録だった。
ロード30kmの世界記録(2時間02分41秒・ペルロフ/ソ連)を現在もなお上回っている。


 ダミラノが現役を退いて12年後、2004年のアテネオリンピック男子20km。
若手のブルネッティがダミラノ以来、24年振りにイタリアに金メダルをもたらした。

 現在ダミラノは競歩委員長として、2000年以降問題となっている
競歩のオリンピック削除を何としても防ぐべく改革を練っている。
その一つとして日本にも影響を与えているが
それも競歩界の発展のためには仕方ないことかもしれない。

 ダミラノが勝った東京世界陸上の8月が迫っている。
来年、また新しいヒーローが誕生するだろうか


自己記録:20kmW 1時間18分54秒(1992)
     30000mW 2時間01分44秒1(世界記録・1992)
     2時間W 29572m(世界記録・1992)
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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年

国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。

内容は私個人の見解を書いています。

日本競歩界の見解ではありません。
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