競歩の話題・歴史など書きました
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第3回世界陸上東京大会は1991年8月23日~9月1日まで行われた。
その舞台となった東京・国立競技場には各種目の優勝者を刻んだ
モニュメントプレートが飾られている(100mゴールの外)。
カール・ルイス(アメリカ 男子100m)、セルゲイ・ブブカ(旧ソ連 男子棒高跳び)、
マリーン・オッティ(ジャマイカ 女子4X100mR)、ジャッキー・ジョイナー・カーシー(アメリカ 女子走り幅跳び)、
そして日本の谷口浩美選手(男子マラソン)。当時一時代を築いた英雄たちの名が刻まれている。
その中に男子20km競歩マウリッソ・ダミラノ(イタリア)、女子10km競歩アリナ・イワノワ(旧ソ連)、
そして男子50km競歩アレクサンドル・ポタショフ(旧ソ連)とある。
しかし、50kmにはもう一人ゴールドメダリストが存在した。
これは競歩史上もっとも過酷なレースの中で産まれた友情物語である。
ペルロフはロシア、ポタショフはベラルーシの出身。
ともにソ連ナショナルチームのメンバーとして
つねに練習もともにし、厳しいトレーニングの中。
友情が産まれていた。
ペルロフは東京大会当時、50kmの世界記録(3時間37分41秒)保持者だった。
前年には20kmでも世界記録(1時間18分20秒)を打ち立て
両種目で世界記録を同時に持ったのは歴史上初めてのことである。
50kmでは実に11年世界記録を保持した。
しかし、それまで大きな大会は代表に選ばれず
90年ヨーロッパ選手権が初タイトルであった。
ポタショフは記録ではペルロフに劣ったが、しかし88年ソウル五輪4位になるなど
実力を発揮していた、何より187cmの長身と内臓の強さを東京大会ではアピールする。
大会8日目の8/31午前7時、男子50km競歩はスタートした。
競技場を5周して1周2.6kmの周回コースを18周して戻ってくるコースレイアウト。
気温26℃、湿度80%、そして何より台風が関東を直撃する中
暴風と大雨という最悪な条件下でスタートした。
出場39名、日本からは今村文男選手、園原健弘選手、小阪忠広選手の3選手が出場した。
特に今村選手は同年6月に行われたワールドカップ競歩で
日本人初の3時間台(3時間59分18秒)をマークして12位に入り、
この大会への期待を膨らませていた。
優勝候補はほぼソ連勢、ドイツ勢に絞られていた。
ソ連勢は世界記録保持者(当時)ペルロフ、88年ソウル五輪4位のポタショフ、同代表のポポビッチ。
ドイツ勢は第1回大会の覇者バイゲル、第2回大会覇者ガウダー。
ドイツ勢の3連覇なるか、それを阻もうとするソ連勢が序盤から先頭集団をリードした。
先頭集団には小坂選手も入り、お茶の間の目を引き、今村・園原両選手は
暑さを考慮して第2集団から後半追い上げに計る作戦。
話を遡ると今村選手が12位に入ったワールドカップ50kmで、
ソ連勢は5人全員が失格するという屈辱を味わらされた。
特にペルロフは2位以下を引き離しながらも残り3mで主任審判に止められ失格になった。
目の前にゴールテープが待ち受ける中の失格に見ていた視聴者も呆然、
ソ連勢は雪辱を晴らすべくこのレースをリードする。
20kmを過ぎてからペースアップに小坂選手やベーカー(オーストラリア)が遅れ、
25km手前からは何とバイゲルも遅れてしまうサバイバルレース。
結局バイゲルはこのあと後方にも追いつかれ途中でレースを諦めた。。
そして30km過ぎからでポポビッチとガウダーが遅れ、
ペルロフとポタショフのソ連勢の争いとなった。
しかし、ペルロフとポタショフ、ほぼずっと同じ位置取りをしながら
まったく争っているようには見えない。嵐の中、お互いの気持ちが
一つになりながらゴールを目指すそんな風に見えた。
台風が過ぎ去ると今度は猛烈な暑さと湿度が選手を苦しめた。
39人中ゴールできたのは25名。途中棄権12名、失格2名。
8位まで入賞した選手の内、最初先頭集団につけていたのは
わずかに4人という中のレースだった。
途中棄権者12名の中に、後に英雄となる
ポーランドのコジェニョフスキーが含まれていた。
当時23歳の彼は、この大会が世界大会デビューであった。
そんな過酷なレースの中、ソ連の2人はまるで哲学者のように
ひたすらゴールを目指して前をキッと睨んでいた。
そして、晴れ渡った空の下、2人は並んでスタジアムに現れた。
大声援を受けて、彼らが見せたのは何とガッツポーズで現れたのだ。
トラックを回りながら、まったく争う様子がない。
残り100m2人は手を振って最後の直線を迎えた。
ラスト50mスパートしない、
そしてポタショフから手を差し伸べて
なんと2人は肩を組んでゴールする。
そのときの実況「2人三脚」でゴールした。
写真判定ではポタショフの優勝となったが
レース後のインタビューで2人は「お互い友達同士なのになぜ1位、2位を
決める必要があるんだ?」と語った。
そして、この友情のゴールINに、ソ連代表団から金メダル・銀メダルを
2つに分けて与えると発表。1936年ベルリン五輪の棒高跳びで西田・大江の
銀メダル・銅メダルを2つに切った友情ストーリーが、ここで見ることとなった。
レースはまだ終わっていなかった。
日本の今村選手は暑さをもろともせず、沿道の大声援の中
徐々に順位を上げていった。40kmで先行していたマリン(スペイン)をかわし
ついに8位まで浮上する。その後9位まで落とすが盛り返し、
ラスト1周でフランスのピエをかわして7位に浮上した。
そして、これまた大声援の中スタジアムに現れ
日本競歩史上初の入賞を果たす。日本競歩界にとって歴史的1日となった。
小坂選手は後半粘りを見せ13位、園原選手は最後は歩くのも精一杯の中
24位でゴールに帰ってきた。
インタービューで3選手が同じように言ったのが
人生で初めてマラソン並みの大声援を受けたことだった。
この台風の中多くの観衆がコースに駆けつけた。
そしてテレビではスタートからゴールまで生中継され、
台風の影響で午前中の種目は競歩以外午後に延期となり
50km競歩が全国のお茶の間に披露された。
このレースの実況担当した日本テレビの若林健二アナウンサーは
生涯もっとも印象に残った実況として語っている。
2位と判定されたペルロフ、実は肩組みゴールインは初めてではなかった。
85年神戸ユニバーシアード20kmでも同じソ連のモストビクと肩を組んでゴールした。
このときも彼は2位と判定されている。
しかし、2位に関しては拘っておらず、友情を優先したエピソードである。
そしてペルロフとポタショフにはまだまだ続きがある。
翌92年バルセロナ五輪に2人揃って出場。
しかし、ポタショフは20km過ぎで失格となってしまう。
逆にペルロフは世界記録保持者の貫禄を見せ付け
伸び盛りの若手であった、メルセナリオ(メキシコ)、
コジェニョフスキー(ポーランド)をまったく寄せ付けず
2位(メルセナリオ)を2分以上引き離して
金メダルのゴールラインを踏んだ。
ペルロフはこの大会を最後に競技生活を退き
ポタショフも94年を最後に引退した(両者ともリザルトが無くなったので判断)。
2人が残した友情のストーリーは我々の心の中に残っている。
現在、2人はどうしているのかは掴めていない。
ドイツで出場したバイゲルは引退後、オーストラリア、ドイツのコーチを歴任。
3位に入った同じドイツのガウダーは93年に引退後、
心臓の障害を被り生命の危機に立たされるが、
病を克服しニューヨークマラソンに出場し、
また近年は何度も来日しており、青梅マラソンを走るなど健在である。
あの熱い夏からはや15年の歳月が流れた。
舞台となった国立競技場は静かにその記憶を留めてくれている。
来年、大阪長居陸上競技場ではどんなドラマが待っているのか
今から楽しみでならない。
ともにソ連ナショナルチームのメンバーとして
つねに練習もともにし、厳しいトレーニングの中。
友情が産まれていた。
ペルロフは東京大会当時、50kmの世界記録(3時間37分41秒)保持者だった。
前年には20kmでも世界記録(1時間18分20秒)を打ち立て
両種目で世界記録を同時に持ったのは歴史上初めてのことである。
50kmでは実に11年世界記録を保持した。
しかし、それまで大きな大会は代表に選ばれず
90年ヨーロッパ選手権が初タイトルであった。
ポタショフは記録ではペルロフに劣ったが、しかし88年ソウル五輪4位になるなど
実力を発揮していた、何より187cmの長身と内臓の強さを東京大会ではアピールする。
大会8日目の8/31午前7時、男子50km競歩はスタートした。
競技場を5周して1周2.6kmの周回コースを18周して戻ってくるコースレイアウト。
気温26℃、湿度80%、そして何より台風が関東を直撃する中
暴風と大雨という最悪な条件下でスタートした。
出場39名、日本からは今村文男選手、園原健弘選手、小阪忠広選手の3選手が出場した。
特に今村選手は同年6月に行われたワールドカップ競歩で
日本人初の3時間台(3時間59分18秒)をマークして12位に入り、
この大会への期待を膨らませていた。
優勝候補はほぼソ連勢、ドイツ勢に絞られていた。
ソ連勢は世界記録保持者(当時)ペルロフ、88年ソウル五輪4位のポタショフ、同代表のポポビッチ。
ドイツ勢は第1回大会の覇者バイゲル、第2回大会覇者ガウダー。
ドイツ勢の3連覇なるか、それを阻もうとするソ連勢が序盤から先頭集団をリードした。
先頭集団には小坂選手も入り、お茶の間の目を引き、今村・園原両選手は
暑さを考慮して第2集団から後半追い上げに計る作戦。
話を遡ると今村選手が12位に入ったワールドカップ50kmで、
ソ連勢は5人全員が失格するという屈辱を味わらされた。
特にペルロフは2位以下を引き離しながらも残り3mで主任審判に止められ失格になった。
目の前にゴールテープが待ち受ける中の失格に見ていた視聴者も呆然、
ソ連勢は雪辱を晴らすべくこのレースをリードする。
20kmを過ぎてからペースアップに小坂選手やベーカー(オーストラリア)が遅れ、
25km手前からは何とバイゲルも遅れてしまうサバイバルレース。
結局バイゲルはこのあと後方にも追いつかれ途中でレースを諦めた。。
そして30km過ぎからでポポビッチとガウダーが遅れ、
ペルロフとポタショフのソ連勢の争いとなった。
しかし、ペルロフとポタショフ、ほぼずっと同じ位置取りをしながら
まったく争っているようには見えない。嵐の中、お互いの気持ちが
一つになりながらゴールを目指すそんな風に見えた。
台風が過ぎ去ると今度は猛烈な暑さと湿度が選手を苦しめた。
39人中ゴールできたのは25名。途中棄権12名、失格2名。
8位まで入賞した選手の内、最初先頭集団につけていたのは
わずかに4人という中のレースだった。
途中棄権者12名の中に、後に英雄となる
ポーランドのコジェニョフスキーが含まれていた。
当時23歳の彼は、この大会が世界大会デビューであった。
そんな過酷なレースの中、ソ連の2人はまるで哲学者のように
ひたすらゴールを目指して前をキッと睨んでいた。
そして、晴れ渡った空の下、2人は並んでスタジアムに現れた。
大声援を受けて、彼らが見せたのは何とガッツポーズで現れたのだ。
トラックを回りながら、まったく争う様子がない。
残り100m2人は手を振って最後の直線を迎えた。
ラスト50mスパートしない、
そしてポタショフから手を差し伸べて
なんと2人は肩を組んでゴールする。
そのときの実況「2人三脚」でゴールした。
写真判定ではポタショフの優勝となったが
レース後のインタビューで2人は「お互い友達同士なのになぜ1位、2位を
決める必要があるんだ?」と語った。
そして、この友情のゴールINに、ソ連代表団から金メダル・銀メダルを
2つに分けて与えると発表。1936年ベルリン五輪の棒高跳びで西田・大江の
銀メダル・銅メダルを2つに切った友情ストーリーが、ここで見ることとなった。
レースはまだ終わっていなかった。
日本の今村選手は暑さをもろともせず、沿道の大声援の中
徐々に順位を上げていった。40kmで先行していたマリン(スペイン)をかわし
ついに8位まで浮上する。その後9位まで落とすが盛り返し、
ラスト1周でフランスのピエをかわして7位に浮上した。
そして、これまた大声援の中スタジアムに現れ
日本競歩史上初の入賞を果たす。日本競歩界にとって歴史的1日となった。
小坂選手は後半粘りを見せ13位、園原選手は最後は歩くのも精一杯の中
24位でゴールに帰ってきた。
インタービューで3選手が同じように言ったのが
人生で初めてマラソン並みの大声援を受けたことだった。
この台風の中多くの観衆がコースに駆けつけた。
そしてテレビではスタートからゴールまで生中継され、
台風の影響で午前中の種目は競歩以外午後に延期となり
50km競歩が全国のお茶の間に披露された。
このレースの実況担当した日本テレビの若林健二アナウンサーは
生涯もっとも印象に残った実況として語っている。
2位と判定されたペルロフ、実は肩組みゴールインは初めてではなかった。
85年神戸ユニバーシアード20kmでも同じソ連のモストビクと肩を組んでゴールした。
このときも彼は2位と判定されている。
しかし、2位に関しては拘っておらず、友情を優先したエピソードである。
そしてペルロフとポタショフにはまだまだ続きがある。
翌92年バルセロナ五輪に2人揃って出場。
しかし、ポタショフは20km過ぎで失格となってしまう。
逆にペルロフは世界記録保持者の貫禄を見せ付け
伸び盛りの若手であった、メルセナリオ(メキシコ)、
コジェニョフスキー(ポーランド)をまったく寄せ付けず
2位(メルセナリオ)を2分以上引き離して
金メダルのゴールラインを踏んだ。
ペルロフはこの大会を最後に競技生活を退き
ポタショフも94年を最後に引退した(両者ともリザルトが無くなったので判断)。
2人が残した友情のストーリーは我々の心の中に残っている。
現在、2人はどうしているのかは掴めていない。
ドイツで出場したバイゲルは引退後、オーストラリア、ドイツのコーチを歴任。
3位に入った同じドイツのガウダーは93年に引退後、
心臓の障害を被り生命の危機に立たされるが、
病を克服しニューヨークマラソンに出場し、
また近年は何度も来日しており、青梅マラソンを走るなど健在である。
あの熱い夏からはや15年の歳月が流れた。
舞台となった国立競技場は静かにその記憶を留めてくれている。
来年、大阪長居陸上競技場ではどんなドラマが待っているのか
今から楽しみでならない。
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Comment
懐かしいですね。
私が最初に競歩のレースを見たのは,バルセロナワールドカップでした。夜中の中継とあって録画をしたのですが,中山秀子さんが可愛かったです。あの人も人の妻,いやはや時の過ぎるのは早いですね。ところで東京世界陸上ですが、私は同じソ連のポポビッチ選手のフオームが気に入っていました。アノ独特のピッチ歩法は格好良かった.本当に歩いているのだなと思いました。ポタショフは途中で取った給水医を吐いていましたね。内蔵に負担がかかる競技だなと思いました。ところで、マラソンなんかで市民ランナーのためにおにぎりを出しているところもありますが競歩は、バナナ以外に何かあるのですか。広島アジア大会でトップの中国の選手がナシを食べた直後におかしくなって散歩になってしまったのを見ましたが。ああいうのも有りですかね。
無題
>鈍足さん
こんばんわ。ポポビッチの歩きは私も気に入ってました。ずっと同じ目線というか上下動なく進むあの歩き。ポタショフは吐くシーンはTVではやってなかったわけですが、そのあと給水をたっぷり口に含んで、若林アナウンサーが驚いていたわりに、解説の白井氏は淡々と語っていたのが印象的でした。
競歩は自分で食べ物を用意している人はいます。以前の記事でも書いたように、最近は食べ物をテーブルに用意してる人は減りましたね。今の選手はスピードがあるのでタイムは早くなってますが、大撃沈したときのヘロヘロ度は私のころに比べたら酷くなっています。もっと食べ物も補給するべきでと思いますね。
私が昔50kmに出たときはバナナのほか、バランスデイトやカロリーメイトを数箱、他にもゼリーを置きました。また練習ではパンを何個か用意したり、このソ連の選手を真似してドリンクにいろいろ混ぜてみたりと給水を楽しんでいました。
ソ連の選手の給水のこと書けばよかったですね。今思うともったいないことをしました。また今度書いてみます。
こんばんわ。ポポビッチの歩きは私も気に入ってました。ずっと同じ目線というか上下動なく進むあの歩き。ポタショフは吐くシーンはTVではやってなかったわけですが、そのあと給水をたっぷり口に含んで、若林アナウンサーが驚いていたわりに、解説の白井氏は淡々と語っていたのが印象的でした。
競歩は自分で食べ物を用意している人はいます。以前の記事でも書いたように、最近は食べ物をテーブルに用意してる人は減りましたね。今の選手はスピードがあるのでタイムは早くなってますが、大撃沈したときのヘロヘロ度は私のころに比べたら酷くなっています。もっと食べ物も補給するべきでと思いますね。
私が昔50kmに出たときはバナナのほか、バランスデイトやカロリーメイトを数箱、他にもゼリーを置きました。また練習ではパンを何個か用意したり、このソ連の選手を真似してドリンクにいろいろ混ぜてみたりと給水を楽しんでいました。
ソ連の選手の給水のこと書けばよかったですね。今思うともったいないことをしました。また今度書いてみます。
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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年
国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。
内容は私個人の見解を書いています。
日本競歩界の見解ではありません。
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内容は私個人の見解を書いています。
日本競歩界の見解ではありません。
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