競歩の話題・歴史など書きました
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女子の競歩は70年代後半からヨーロッパで本格的に競技会が始まった。
1976年モントリオールオリンピックで50kmが削除されたことを受けて
世界の競歩界は改革を積極的に行なった。
世界的な普及を目指してワールドカップ競歩第1回大会の開催、
そして女子の競技会の普及であった。
これを受けて日本でも1980年11月に日本記録を公認。
翌1981年から本格的スタートし新聞紙上でも取り上げられた。
80年代に入ると中国が強化に乗り出した。
新種目に非常に力を入れる中国であるが
その中でも競歩は現在もトップクラスの地位を保っている。
その中から、女子競歩が初めて採用された
1992年バルセロナオリンピック10km競歩
女子競歩初代チャンピオンに輝いた陳躍玲を取り上げる。
1976年モントリオールオリンピックで50kmが削除されたことを受けて
世界の競歩界は改革を積極的に行なった。
世界的な普及を目指してワールドカップ競歩第1回大会の開催、
そして女子の競技会の普及であった。
これを受けて日本でも1980年11月に日本記録を公認。
翌1981年から本格的スタートし新聞紙上でも取り上げられた。
80年代に入ると中国が強化に乗り出した。
新種目に非常に力を入れる中国であるが
その中でも競歩は現在もトップクラスの地位を保っている。
その中から、女子競歩が初めて採用された
1992年バルセロナオリンピック10km競歩
女子競歩初代チャンピオンに輝いた陳躍玲を取り上げる。
女子の競歩の開始が遅れた理由は定かではないが
当時の長距離種目の女子に対する考え方の問題もあったのかもしれない。
要は長距離スポーツの過酷さが、女性の身体に影響を与えてしまう
という懸念であった。実際男子でも身体を酷使するスポーツである。
そういった女性の機能を阻害する恐れがマラソンを含めた
導入を遅らせてたいたと言われている。
もちろん現在はトレーニング方法も確立され
その恐れはなくなったと言ってよい。
女子マラソンがオリンピックで採用されたのは
1984年ロサンゼルス大会からである。
あの、アンデルセン(スイス)がヘロヘロになりながら
ゴールしたシーンは今でも記憶に残っている。
実はトラック10000mが導入されたのは
翌ソウル大会であることはあまり知られていない。
競歩に至っては1987年ローマ世界陸上で初めて採用された。
以前、女子ハンマー投げが導入された際、
日本陸連投擲コーチの室伏重信氏が「女性特有の柔軟性が
活かされるハンマー投げが導入されてこなかったのは疑問だ」
と述べている。競歩もそれが当てはまる競技と言える。
中国が競歩で世界ランク上位に入ってきたのは1983年ごろである。
ちょうど1984年ロサンゼルスでオリンピック出場を果たすころで
競技全体で力をつけていた。
そんな黎明期を経て、早くも世界ランク上位に顔を連ね
1987年ローマ世界陸上では金 紅が銅メダルを獲得した。
その年、10月に10km43分52秒で世界ランク5位に入ったのが陳躍玲であった。
世界選手権には出場できなかったが、新しい若手選手とした頭角をあらわした。
そして1989年ホスピタレート(スペイン)で開催されたワールドカップ10kmWで
44分27秒のタイムで5位に入った。
翌1990年地元北京で開催されたアジア大会では
スタートから飛び出し、そのまま2位に3分近い大差をつけて
独歩優勝した。彼女にとって初のビックタイトルとなった。
この当時、世界ランカーと言えば、サクスビー(オーストラリア)、
アンデルス(東独)らであった。サクスビーは室内も含め30回以上も
世界記録を更新し、89年には男子顔負けの10kmW41分30秒の世界記録をマーク。
このタイムは94年まで保持しつづけ、2000年シドニーオリンピックでは
40歳で20km7位に入る息の長い選手だった。
そんな世界の強豪選手が91年東京にやってくることになる。
その直前に行なわれた、ワールドカップ(アメリカ・サンノゼ)では
陳は途中失格に終わった。世界陸上前の世界ランクは10位以内に入っており
ワールドカップは失格であったものの優勝候補の一人であった。
世界陸上は夏でありながら25℃を切る涼しい展開となった。
もちろん陳も先頭集団につける。
ラスト1周でイワノワ(旧ソ連)がスパートした際も、彼女だけがついた。
しかし、残り1.5kmから息切れし、最終的には8位まで順位を落としてしまった。
翌1992年、いよいよバルセロナオリンピックより女子競歩が採用された。
陳も中国代表として参加。10kmでありながらラストは
モンジュイックの丘を登ってスタジアムに入るコース。
8/3女子10kmW。そのモンジュイックの丘から抜け出したのが陳であった。
すぐ後ろにイワノワ、ニコラエワ(EUN)、李(中国)が僅かな差で続く。
そして陳が先頭でトラックに入ってきた。猛然と追いかけてきたのが
イワノワであった。残り200mで陳を逆転。そのまま先頭でゴールに飛び込んだ。
陳が続いて1秒差でニコラエワが3番手で続いた。
ところが、イワノワのスパートは審判の目を掻い潜ることはできず
ゴール後に失格となってしまった。各種写真でもこの模様は取り上げられている。
かくして、繰上げで陳は金メダル、また3位には李春秀が入り中国が1、3となった。
陳の快挙はアジアの女性として初の陸上ゴールドメダリストとして
歴史に残ることとなる。
陳はこの年で競技を離れた。
そして中国は世界のトップとして更なる進化を遂げる。
中国は競歩意外にも三段跳、ハンマー投げ、棒高跳の女子導入時に
世界トップにありながらほとんどで世界に置いていかれている。
その中で競歩だけは世界のトップを維持しているのである。
1995年地元北京で開催されたワールドカップで男子20km・50km、女子10kmと
全種目で優勝を果たした。
翌1996年アトランタオリンピックでは女子で王研が銅メダルを獲得。
20kmに距離が伸びた、1999年世界陸上(セビリア)では
ワンツーフィニッシュを果たした。
世界のトップに君臨した中国。
陳の名前も歴史上の人物忘れ去られていた。
しかし思わぬ形で彼女がクローズアップされることとなる。
2000年、場所はアメリカ。
オリンピック予選を兼ねた全米選手権。
女子20kmWで2位に入ったある選手が注目を浴びた。
その名は「Chen Yueling」。
そう、あの陳躍玲その人であった。
彼女は引退後、アメリカ人の旦那さんと結婚。
アメリカに移住していたのだ。
家庭生活も落ち着いたのか競技に復帰し
全米選手権で2位に入り、標準記録も突破して
代表権を獲得した。
ところが、とある規定が問題となった。
それは国籍を変更して3年未満の選手は、
母国の承認が必要という規定である。
選手の亡命をある意味防ぐ規約ではあるが
陳の場合、競技を離れていた選手。
そして中国が承認を渋っていた。
ところが北京五輪を目指していた中国は
クリーンなイメージを出そうと承認。
晴れて8年ぶりにオリンピックに戻ってくることが出来た。
シドニーオリンピックではスタートから
先頭を引っ張る健在アピール。
しかし力の差は大きく徐々に後退した。
結局トップから10分遅れの38位(1時間39分36秒)。
このとき優勝は中国の王麗萍、このときも
上位3人が次々に失格しての優勝となったが
王は先頭のサビールを猛然と追い上げていたこともあり
失格がなくとも上位に入っていたようだ。
かくして、10km、20kmともに初代チャンピオンは中国。
近年は男子もメダルに絡むようになり
世界の脅威な存在として認められてきた。
2008年北京オリンピックに向けて力が入っている。
当時の長距離種目の女子に対する考え方の問題もあったのかもしれない。
要は長距離スポーツの過酷さが、女性の身体に影響を与えてしまう
という懸念であった。実際男子でも身体を酷使するスポーツである。
そういった女性の機能を阻害する恐れがマラソンを含めた
導入を遅らせてたいたと言われている。
もちろん現在はトレーニング方法も確立され
その恐れはなくなったと言ってよい。
女子マラソンがオリンピックで採用されたのは
1984年ロサンゼルス大会からである。
あの、アンデルセン(スイス)がヘロヘロになりながら
ゴールしたシーンは今でも記憶に残っている。
実はトラック10000mが導入されたのは
翌ソウル大会であることはあまり知られていない。
競歩に至っては1987年ローマ世界陸上で初めて採用された。
以前、女子ハンマー投げが導入された際、
日本陸連投擲コーチの室伏重信氏が「女性特有の柔軟性が
活かされるハンマー投げが導入されてこなかったのは疑問だ」
と述べている。競歩もそれが当てはまる競技と言える。
中国が競歩で世界ランク上位に入ってきたのは1983年ごろである。
ちょうど1984年ロサンゼルスでオリンピック出場を果たすころで
競技全体で力をつけていた。
そんな黎明期を経て、早くも世界ランク上位に顔を連ね
1987年ローマ世界陸上では金 紅が銅メダルを獲得した。
その年、10月に10km43分52秒で世界ランク5位に入ったのが陳躍玲であった。
世界選手権には出場できなかったが、新しい若手選手とした頭角をあらわした。
そして1989年ホスピタレート(スペイン)で開催されたワールドカップ10kmWで
44分27秒のタイムで5位に入った。
翌1990年地元北京で開催されたアジア大会では
スタートから飛び出し、そのまま2位に3分近い大差をつけて
独歩優勝した。彼女にとって初のビックタイトルとなった。
この当時、世界ランカーと言えば、サクスビー(オーストラリア)、
アンデルス(東独)らであった。サクスビーは室内も含め30回以上も
世界記録を更新し、89年には男子顔負けの10kmW41分30秒の世界記録をマーク。
このタイムは94年まで保持しつづけ、2000年シドニーオリンピックでは
40歳で20km7位に入る息の長い選手だった。
そんな世界の強豪選手が91年東京にやってくることになる。
その直前に行なわれた、ワールドカップ(アメリカ・サンノゼ)では
陳は途中失格に終わった。世界陸上前の世界ランクは10位以内に入っており
ワールドカップは失格であったものの優勝候補の一人であった。
世界陸上は夏でありながら25℃を切る涼しい展開となった。
もちろん陳も先頭集団につける。
ラスト1周でイワノワ(旧ソ連)がスパートした際も、彼女だけがついた。
しかし、残り1.5kmから息切れし、最終的には8位まで順位を落としてしまった。
翌1992年、いよいよバルセロナオリンピックより女子競歩が採用された。
陳も中国代表として参加。10kmでありながらラストは
モンジュイックの丘を登ってスタジアムに入るコース。
8/3女子10kmW。そのモンジュイックの丘から抜け出したのが陳であった。
すぐ後ろにイワノワ、ニコラエワ(EUN)、李(中国)が僅かな差で続く。
そして陳が先頭でトラックに入ってきた。猛然と追いかけてきたのが
イワノワであった。残り200mで陳を逆転。そのまま先頭でゴールに飛び込んだ。
陳が続いて1秒差でニコラエワが3番手で続いた。
ところが、イワノワのスパートは審判の目を掻い潜ることはできず
ゴール後に失格となってしまった。各種写真でもこの模様は取り上げられている。
かくして、繰上げで陳は金メダル、また3位には李春秀が入り中国が1、3となった。
陳の快挙はアジアの女性として初の陸上ゴールドメダリストとして
歴史に残ることとなる。
陳はこの年で競技を離れた。
そして中国は世界のトップとして更なる進化を遂げる。
中国は競歩意外にも三段跳、ハンマー投げ、棒高跳の女子導入時に
世界トップにありながらほとんどで世界に置いていかれている。
その中で競歩だけは世界のトップを維持しているのである。
1995年地元北京で開催されたワールドカップで男子20km・50km、女子10kmと
全種目で優勝を果たした。
翌1996年アトランタオリンピックでは女子で王研が銅メダルを獲得。
20kmに距離が伸びた、1999年世界陸上(セビリア)では
ワンツーフィニッシュを果たした。
世界のトップに君臨した中国。
陳の名前も歴史上の人物忘れ去られていた。
しかし思わぬ形で彼女がクローズアップされることとなる。
2000年、場所はアメリカ。
オリンピック予選を兼ねた全米選手権。
女子20kmWで2位に入ったある選手が注目を浴びた。
その名は「Chen Yueling」。
そう、あの陳躍玲その人であった。
彼女は引退後、アメリカ人の旦那さんと結婚。
アメリカに移住していたのだ。
家庭生活も落ち着いたのか競技に復帰し
全米選手権で2位に入り、標準記録も突破して
代表権を獲得した。
ところが、とある規定が問題となった。
それは国籍を変更して3年未満の選手は、
母国の承認が必要という規定である。
選手の亡命をある意味防ぐ規約ではあるが
陳の場合、競技を離れていた選手。
そして中国が承認を渋っていた。
ところが北京五輪を目指していた中国は
クリーンなイメージを出そうと承認。
晴れて8年ぶりにオリンピックに戻ってくることが出来た。
シドニーオリンピックではスタートから
先頭を引っ張る健在アピール。
しかし力の差は大きく徐々に後退した。
結局トップから10分遅れの38位(1時間39分36秒)。
このとき優勝は中国の王麗萍、このときも
上位3人が次々に失格しての優勝となったが
王は先頭のサビールを猛然と追い上げていたこともあり
失格がなくとも上位に入っていたようだ。
かくして、10km、20kmともに初代チャンピオンは中国。
近年は男子もメダルに絡むようになり
世界の脅威な存在として認められてきた。
2008年北京オリンピックに向けて力が入っている。
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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年
国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。
内容は私個人の見解を書いています。
日本競歩界の見解ではありません。
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