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競歩の話題・歴史など書きました
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オリンピックは前回のアテネで28回となる。
1896年アテネから様様な名勝負、偉大な選手が次々と誕生した。
そんな中、競歩種目も歴史を刻んでいる。

 しかし競歩種目は幾度となく存亡の危機を向かえつつも
その都度選手の熱意、周りの熱意で乗り越えてきた。

 今後、各オリンピックでの大会模様を予定しているが
その豆知識として、競歩がオリンピックとどのような位置で
存在しているのかを書いてみたい。

 今回はかなりの長文となることをご容赦いただきたい。




 競歩がオリンピックに初めて登場したのは
1906年アテネの中間大会である。
この中間大会、正式にはオリンピックとしては数えられていない。
1896年アテネ大会が行なわれたとき、当時のギリシャ国王が
「永久にアテネで開催すべし」と主張したのを説得・譲歩させるため
アテネオリンピック10周年となるこの年、中間大会が開かれたのである。
中間大会はあとにも先にもこの1回だけだが
競歩にとっては大きな第一歩であるこの大会を外すことはできない。

 その2年後、1908年ロンドン大会で公式にオリンピックに登場することになる。
 
 オリンピックに登場したものの、しばらく距離はまちまちだった(いずれもトラックで実施)。

1906(アテネ):1500m 3000m
1908(ロンドン):3500m 10マイル
1912(ストックホルム):10000m
1916(ベルリン):大会中止
1920(アントワープ):10000m 3000m
1924(パリ):10000m

 そして、1924年パリ大会で最初の危機が訪れることになる。



~最初の危機~


 1924年のパリ大会では10000mW予選・決勝が行なわれた。
その予選にてオーストリアの選手が独歩していたが
中盤で失格となってしまった。しかしその光景が理解できなかった
第一次大戦同盟国のオーストリア、ドイツ、ハンガリーの応援団が興奮し
一食触発の危ない雰囲気となった。救済処置でこの選手は結局決勝に
進出できたのだがその決勝でも失格してしまう。
このときの審判が連合国のアメリカ、イギリス、フランスで占められていたことから
国際問題に発展。
パリ大会後の会議で翌1928年アムステルダム大会では競歩が外されることが決定した。
公式に理由は発表されてはいないのだが、戦争の傷跡がオリンピックに影響を及ぼした事例と言える。


 実際1928年のアムステルダム大会では競歩が行なわれていない。
しかし、イタリア、イギリス、ヨーロッパの強豪国は一致団結して
復活させるべく機運を高めていた。
そして大会中に開催された、第9回国際陸連総会でついに競歩の復活が採択された。
距離についてもいくつか議案が出され、道路で行なう50kmが票を集め
翌1932年ロサンゼルス大会より50km競歩として2大会ぶりに復活した。

 また、1936年ベルリン大会50kmでは奈良岡良二選手が日本選手として初めて出場(19位)。
しかし日本競歩界にとって、このあと1964年東京大会まで実に28年間、
選手を送り込むことが出来ず、大きな痛手となってしまった。


 戦後、1948年ロンドン、1952年ヘルシンキ大会と10000m(トラック)と50km(ロード)で行なわれた後、
1956年メルボルン大会で10000mは20kmとなった。ここに現行の20km、50km体制が築かれることになる。
このメルボルン大会でソ連勢が台頭、スピード化の第一歩が計られた。
1964年東京大会で日本で初めて大きな国際大会で競歩がお茶の間に披露され、
1972年ミュンヘン大会50kmで地元西ドイツのカンネンベルクが
オリンピックで初めて3時間台をマーク。

 しかしミュンヘン大会後、競歩の問題点が挙げられることとなる。



~2回目の危機~

 問題となったのは50kmが長時間都市の交通規制することに疑問の声があがった。
肥大するオリンピックオリンピックといえど、同じコースを5時間近く規制することになる。
実際日本でも全日本競歩が地方で行なわれているのも
その影響があるのかもしれない。
かくして、翌1976年モントリオール大会では20km1種目のみの実施と相成った。

 しかし、ここでもヨーロッパをはじめ、メキシコ、オセアニアなどを加えた
世界の競歩界が結束した。
1975年にはロンドンで50km復活を叫ぶデモ行進も行なわれ、。
さらに1976年には競歩だけの世界選手権ルガノカップが開催された。
これが現在のワールドカップ競歩第1回大会なのである。
そして、女子の競歩も国際大会が各国で盛んとなり
モントリオールの事態をきっかけに競歩の普及、発展に向けて
大きな前進となった。
この努力が翌1980年モスクワ大会で50km復活につながることになる。


 そして女子の競歩も世界中に普及し、世界陸上では1987年ローマ大会で採用され
1992年バルセロナオリンピックで10kmとして第一歩を刻む。
2000年のシドニー大会で女子は20kmとなり、現行の男女20km・男子50kmとして
歴史を踏むこととなるのだが・・・・・こんどはジャッジの問題が発生する。



~3回目そして今後の危機~

 2000年のシドニー大会女子20kmでその端は発した。
このレースで残り4kmを過ぎたところで中国の選手が失格。
そしてスパートしたイタリアの選手が残り1周で失格、
ここでトップになった地元オーストラリアのサビールが
大声援を受けながらスタジアムに向かっていた。
ところが、スタジアム入り口のトンネルの中で
彼女も失格となってしまった。

 これをきっかけに、ジャッジの方法をめぐる議論が起き、
後に野球やソフトボール、近代5種などとともに
削除対象の候補としてリストアップされてしまった。
実際、競歩はどこへ行っても議論の対象となることは事実である。
走りとは区別するため、高度な技術を我々選手は目指している。
しかし心無い一部の人々によって、その努力が無にされることもある。
それだけ精神力も必要なスポーツだ

 その後、競歩界もジャッジの明確化を計るべく
国際審判員を厳しく選定した(その影響が多少日本にも出てしまっているが)。
また世界的にも普及しつつあったことも考慮され
競歩は存続することとなった。


 こうして、3度の大きな危機を乗り越えたスポーツそれが競歩である。

 これからも選手たちの熱意によってこのスポーツは存続していくはずである。
レースでの名勝負、偉大なる英雄たちはこれからも誕生する。

 日本での普及はかなりの層まで進んでいるが、
しかしお茶の間で目にすることが少ない以上、
まだまだ理解を得られていない。
来年の大阪世界陸上では競歩も生中継されることが決定されている。
私も「裏方」ではあるが、日本選手が世界で活躍できるよう
このブログを通じて情報を発信していきたい。


参考資料:陸上競技マガジン「競歩のオリンピック史」
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プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年

国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。

内容は私個人の見解を書いています。

日本競歩界の見解ではありません。
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