忍者ブログ
競歩の話題・歴史など書きました
[59]  [58]  [57]  [56]  [55]  [54]  [53]  [52]  [51]  [50]  [49
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 先週の地震の影響で輪島大会の中止が決まり
50kmのみ開催地変更して行なわれることとなった。

 その輪島におそらく多く来日しているのがメキシコである。
日本とメキシコは競歩で非常に結びつきが強く、
その先駆けは故・斎藤和夫氏。
斎藤氏がメキシコ五輪を目指す中、高地トレーニングとして
選んだのが開催地メキシコであった。
そのあと、50kmの日本記録やメキシコ五輪17位など好成績を収め
その経験をもとに斎藤氏は強化委員になってからは
強くメキシコ合宿を推奨。80年代から90年代にかけて
多くの日本選手がメキシコへ渡り、数多くの成果を収める。

 現地の選手ともにトレーニングにあたり、
非常に関係は親密になり、今回取り上げるカルロスメルセナリオや
ホエル・サンチェス(シドニー五輪50km2位)、
ノエ・エルナンデス(シドニー五輪20km2位)、
98年には前年世界陸上20kmの優勝のダニエル・ガルシアを招待に成功。
世界記録を公言し、5km19分30秒で入るなど世界のスピードを見せつけた。

 その中で最も親日家として、関係の深かった
92年バルセロナ五輪50km2位のカルロス・メルセナリオにスポットを当てる。

 メルセナリオは1967年生まれ、
ジュニアの時代から頭角をあらわし、87年ワールドカップ(スペイン)で優勝。88年ソウル五輪では21歳ながら7位に入った。
同年代のシチェンニコフ(ソ連→ロシア)とは
良きライバルとして、室内陸上などで競り合った。

 その後、メルセナリオは50kmに照準を絞った。
そして、91年サンノゼワールドカップで50km世界大会本格デビュー。
終盤までペルロフ(ソ連)とデッドヒート、当時世界記録保持者だった
ペルロフはやはり強かった。残り10kmを過ぎてからペルロフが引き離しにかかる。
そのままリードを保ったまま、優勝と思われたが
なんとゴール手前3mのところで失格。
2位を歩いていたメルセナリオが思わぬ形で優勝を手にした。

 東京世界陸上は20kmに出場。
92年バルセロナオリンピックは50kmに出場し
終始、ペルロフ、コジェニョフスキー(ポーランド)、バイゲル(ドイツ)と
バトルを繰り広げたが、ここでもペルロフに置いていかれ
コジェニョフスキーが2位で来ながらスタジアム入り口で失格するという
ハプニングもあって2位にジャンプアップした。

 翌93年ワールドカップ競歩は地元メキシコ開催。
50km見事2連覇を達成する。ちなみに20km、50kmともに優勝した選手は
メルセナリオただ一人である。

 その年の世界陸上(ドイツ)は40kmまで先頭集団ながら
その後大崩して8位に終わった。
それからは調子のいいシーズンを送ることは少なく
95年、99年の世界陸上代表に選ばれたが
オリンピックに出場することはできなかった。

 そんな、メルセナリオも何度か来日している。
特に素晴らしかったのは94年の輪島大会では50km招待。
オリンピック銀メダリストを招聘できたことは
日本とメキシコの親密な関係を物語ってると言えよう。

 今村文男選手やとりわけ仲の良かった小坂忠広選手を引っ張り
今村選手の日本記録(当時・3時間53分29秒)、
小坂選手の自己新(3時間56分36秒)をアシスト。
陸マガでは満足そうな表情を浮かべる、メルセナリオが印象的だった。


 そして、メルセナリオが親日家として最も心に残るエピソードが
小坂忠広選手の結婚式に遠くメキシコから夫妻で来日。
小坂選手とメルセナリオの友情が現れたエピソードだった。 
PR

Comment
Name
Title
Mail
URL
Comment
Pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
プロフィール
HN:
rawk
性別:
男性
職業:
IT業
趣味:
競歩
自己紹介:
競技暦11年

国際大会、歴史などさまざまな話題を時には楽しく、時には辛口に週一ペースで書いていく予定です。

内容は私個人の見解を書いています。

日本競歩界の見解ではありません。
フリーエリア
最新TB
バーコード
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]